伝わる「褒める」と伝わらない「褒める」の違い

会社で定義している「良い上司の条件」の中に「上手に褒める」という項目がある。

自分自身の経験則となるので誰しもに当てはまるものではないだろうが、「この人は信頼できるなぁ」「こういう人になりたいなぁ」と思った人はこの条件に当てはまっていたと感じる。その人たちの行動を改めて思い返すと「褒める」という行動自体が目的ではなかったのではないだろうか。

自分が過去に出会った尊敬できる上司たちは、部下である自分を「気に掛ける」「認める」「いつも見ている」の延長線上でタイミングよく「褒める」という行動をとっていたように思う。

「部下を育てるためには褒めるのが重要」という、コミュニケーションの手法だけをなぞったとしても、それは人に対して伝わるものではなく、むしろわざとらしさや怪しさを生むだろう。

また「気に掛ける」「認める」「いつも見ている」の解釈を深めると、部下の能力が発揮できるかどうかは上司である自分次第で、部下が結果が出せないのは自分自身の能力不足である、と腹を括っていたようにも感じる。

以前に在籍していた会社を退職する際、ある上司は僕をわざわざ呼び出して時間をとってくれ、色々と話を聞いてくれた。またその時、その上司のさらに上司だった人の話をしてくれた。上司の上司にあたるその人は、部下を認め、気にかけることができる人物であると話しから感じた。

もちろん、必ずしも美談ばかりでもないとは思った。真正面から互いに向き合うことでの衝突もあっただろう。けれども僕の上司は、その昔にともに仕事をしたその上司のことをとても認めていて、信頼していた。

全く真逆の上司も何人も見た。ある人は小手先だけの「褒める」を行っていて、いろんな人に「あの人は調子がいいだけだ」といった心象を与えていた。またある人は自分のことばかり考えていて、部下のピンチの時にはいつもいない人だった。

そういう上司と一緒に仕事をするのは苦痛以外の何者でもなかったが、離れた今となっては「そういう人もいる」ということを知り、反面教師として学びにはなっている。

 ベイジの定めた「良い上司の条件」は、「上司はこうあるべき」という口調で書かれているが、そうならなければいけないと考えてしまうと、うまく実践できないだろう。

しかし、行動指針を一旦置いておいて、「こういう上司に私はなりたい」「こういう上司にはなりたくない」という強い想いに目を向ければ、自然と行動指針に書かれた姿に近づいていくものなのではないだろうか。

また、「カッコいい上司でありたい」「頼られる上司でありたい」「優しくも厳しい上司でありたい」その姿を思い描くことは大切だ。しかし、その姿をジャッジするのは部下や周囲の人だ、ということも忘れてはいけない。周囲の人がどう感じているか、という心に寄り添わなければ、理想の姿に自分が近づいているのか、遠のいているのかを、正しく知ることはできないだろう。

自分自身、過去に尊敬できた上司に近づいているのかどうか、自分が感じた尊敬を、自分の部下にも感じてもらえているのか、独りよがりの自己評価ではなく、常に周囲の人の心の動きに気を配って、できるだけ客観的に自己評価できる自分でありたいと思う。