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無料で相談してみるUXについて色々と考えることがあり、少し言葉にまとめてみた。何が正しいという話ではないが、率直に感じていることである。
車を運転する人なら経験したことがあると思うが、「近づかないと識別できない信号」というのがある。
この手の信号は、近付くまで青なのか赤なのか判別できない。そのため信号の近くになるまで、このまま進むべきか、ブレーキを踏むべきか、とドキドキさせられる。
先日までペーパードライバーだった私は、当初、スムーズな運転を妨げてストレスを感じさせるこの信号を、液晶の表示角度などの計算を誤った設置ミスだと思っていた。
しかしこれは、複雑な交差点などでの交通事故を防ぐために意図的に仕掛けられたもののようである。
いちドライバーとしては、けっして心地よい体験ではない。しかし、社会全体にとっては良い方向に向かうようデザインされた信号といえる。
このような「意図的にユーザー体験を悪化させたデザイン」は、他にも色々存在する。
牛丼チェーンの吉野家の椅子には、背もたれがない。椅子に座って寛げないようにすることで、回転率を上げるための工夫である。
「牛丼チェーン店のイスにはなぜ背もたれがないのか?吉野家がこだわる『お客さんがくつろげない』工夫」
これも「ゆっくりと落ち着いて食事ができる」という観点からすれば、顧客にとって望ましくないデザインである。一方で吉野家にとっては回転率アップという望ましい結果を生む。その点だけを見れば、「企業都合のデザイン」といえるかもしれない。
しかし見方を変えれば、こうした企業努力が「安くて早くて美味い牛丼が食べられる」という根幹の顧客価値に繋がっている。店内において意図的に顧客体験を劣化させているのは、より重要な顧客体験を守るため、ともいえる。(現在の吉野家は、店舗コンセプトの多角化が進んでおり、椅子に背もたれがある店舗も存在する)
また、多くのファストフード店のメニューでは、意図的に見づらいデザインが選択されているようである。
ファストフード店のメニューが“見づらく”作られている、納得の理由
記事によれば、見づらいデザインによって企業側が優先的に買って欲しい商品に顧客を誘導することに成功している、とされている。果たしてこれは、顧客体験という観点では、どう捉えるべきなのか。
自らの意思を持って選びたい顧客にとっては、望ましくないデザイン、体験を阻害されるデザインと言える。企業が収益性を高めるために仕掛けたダークパターンと捉えることもできる。
しかし、すべての顧客がレジを前にして冷静な選択をしたいわけではない。なんとなくの希望しかない状況の中、限られた時間内で意思決定するには、ある程度誘導してくれた方が楽、という人もいる。「選択疲れ」という言葉もあるが、多くの選択肢が提示されて選べることが、顧客やユーザーにとって常に望ましい体験とは限らない。
この見づらいデザインは、自分の意思で選ぶことに拘らない顧客にとっては、体験上の利益(例:選択のショートカット)に寄与するデザインという見方もできる。
ビジネスやデザインの世界にExperienceという概念が持ち込まれたのは意外と古い。
デザイン領域における源流と言われるドナルド・ノーマンの名著『The Design of Everyday Things(邦題:誰のためのデザイン?)』は1990年刊行である。
2000年にはB.J.パインと J.H.ギルモアの『Experience Economy(邦題:経験経済)』がビジネス界隈でベストセラーとなっている。
有名なUX5階層モデルが提唱されたJ.J.ギャレットの『The Elements of User Experience(邦題:ウェブ戦略としてのユーザーエクスペリエンス)』は2005年に刊行されている。
UXという言葉がビジネスシーンで頻繁に使われ出したのは、iPhone登場以降だ。スマートフォンの爆発的な普及により、スマートフォンに最適化したアプリケーションやウェブサイトのデザインや開発が多く求められるようになり、UXやUI/UXという言葉が広く使われだした。
スマートフォンの登場がUXという概念の普及を促進した一因として、アプリケーションやソフトウェアを使う上での利用場所の制約がなくなったというのは大きい。様々なシーンで使うことが可能になったスマートフォンに搭載されるアプリケーションでは、ユーザーを取り囲んでいる体験全体を意識してデザインしないと、ユーザーや顧客のニーズに応えにくくなった。
こうしたことも一つの要因として、特にUIをはじめとするデザインの世界でUXという考えが浸透したのではないだろうか。
そして、特にデジタルプロダクトやウェブサイトのデザインの現場では、この概念を上手に活用する手法として、ペルソナ、カスタマージャーニー、ユーザーストリーリーマッピング、サービスブループリントなどのフレームワークが使われるようになった。それらの精度を高めるためのインプット手段として、顧客やユーザーを解像度高く理解するためのUXリサーチにも注目が集まるようになった。
ビジネスシーンにおけるUXという概念が登場した意義は、「サービスやプロダクトは企業視点/技術視点ではなく、ユーザー視点(≒顧客視点)であるべきだ」ということを共通言語化したことだろう。言わば当たり前のことだが、これをキャッチーな一つの言葉で共通言語化できるところに、「UX」という言葉の真価がある。
一方でUXという概念は、「人」と「体験」に視点を固定化させられる。これは「企業」「利益」「売上」に視点が固定化されることで間違った方向に向かうという、ビジネスにおいてよくある過ちを回避する効果があるが、UXの視点ならではの落し穴もある。
一つは、「体験」の定義が曖昧で、何を持って「良い体験」とするかの解釈の余地が大きく、人によって異なりやすいこと。解釈の余地が大きいということは、自分にとって都合がいいように、あるいは自分の美学や価値観に沿うように解釈できてしまう、ということである。
もう一つは、人それぞれの「嬉しい体験」にフォーカスするため、発想が近視眼的になること。つまり、社会、環境、ビジネス、キャリア、人生といった、より全体的・包括的・長期的な視点は、スコープ外になる。
各種のUX系書籍を読んでいても分かるが、UXデザインは「嬉しい体験を作ること」を前提としている。だから、UXデザインの現場で使われているUXリサーチからペルソナ、カスタマージャーニーなども、人の体験にフォーカスしている。そのため、ユーザーや顧客を喜ばせるような発想は出てくる。
私自身、UXのこの考えの根本を否定するつもりはなく、多くの場面で、「嬉しい体験を作ること」を突き詰めて考えることは、有意義なことだと思っている。
しかしUXだと、前述の事例のような「個々人の嬉しさは減退させるが、ビジネスや社会全体はより良くなる」というアイデアは出てきにくい。極端な例を挙げれば、中毒性のある仕組みで人を喜ばせて、長期的に見て重要な時間やお金を奪うようなデザインにも加担できてしまう。
先ほどの事例が「UXデザイナーの職務領域なのか?」という議論はさておき、吉野家の椅子のような「滞在時間を悪化させることで顧客に経済的・時間的な便益をもたらす」という発想は、今のUXデザインからはほぼ出てこないだろう。一方で、収益性を無視した、ユーザー目線、UX目線ではあるものの、理想論的で収益性に乏しいアイデアには結び付きやすい。
収益性とは企業都合に思える。「だからユーザー不在・顧客不在のサービスになるんだ」とUXデザイナーは反発するかもしれない。しかし収益性が低いということは、UXを提供する仕組みとしての持続可能性が低いということである。例え最高のUXを一時的に実現できても、収益性が伴わなければ、その取り組みを続けるのは難しくなる。
UXと一口に言っても、様々な分類や考え方が存在する。例えばUXの時間軸に合わせた、以下のような種類分けがある。
先の「吉野家の椅子」や「ファーストフードのメニュー」の例では、店内での体験を心地よくするのは一時的UXの観点といえる。しかしビジネスとしては、ブランドに好印象を持ってもらい、ロイヤリティを感じ、何度も訪問したいと思う体験を提供しないといけない。つまり、エピソード的UXや累積的UXまで考えて体験設計をすべきだ、という発想が生まれる。
ここまではUXの視点だけで到達できる。しかしここから「椅子の座り心地を悪くして回転率を高めて利益効率を高めて単価を安くして、お店の待ち時間を減らす」という発想になるUXデザイナーは、果たしてどのくらいいるのだろうか。
累積的UXの発想だと、椅子を座り心地良くするだけでなく、広々とゆったり過ごせるようにする、吉野家でご飯を食べるとゆっくり食事ができる、繰り返し訪問するほどポイントが貯まってサービスが向上する、結果的にますます行きたくなる、といった体験を発想しがちだ。
しかし、この視点では不足する何かがある。それは、仕組み(事業や制度)全体の最適化の視点、数字の視点、経済的持続性の視点、それら諸々を言い換えれば、「ビジネス」の視点ではないだろうか。(ここでいうビジネスは、企業による営利活動だけでなく、非営利団体による社会活動も含む、目的を持つ人々の営み全般を指す)
だがそれ以前に、こんな風に累積的UXの視点まで考え抜かれることはそもそもあまりなく、ほとんどの現場では一時的UXの観点での「目の前の嬉しい体験」を前提にUXを考え、UI等に反映しているのが実態ではないだろうか。
もちろんUXデザインという知識領域が、ビジネスを完全に無視してるとは思わない。数々のUX関連の書籍には大抵、ビジネスへの配慮を促す言及がある。(ほとんどは非常に軽微だが…)
また、UXデザインの中で、ビジネスモデルキャンバス(リーンキャンバスやリーンUXキャンバスなどの派生形を含む)やバリュープロポジションキャンバスなど、ビジネス寄りのフレームワークが紹介されることがある。
これらはビジネスを構造的に捉えることができるフレームワークである。本来はUX領域に限って使われるものではないが、UXを検討する上での事業上の前提や制約を整理するのに便利で、UXデザインの現場でもしばしば用いられているのではないだろうか。
しかしこれらのフレームワークは、サマリーや共通認識を取るために分かりやすさ、簡潔さが優先されており、半面、事業において重要な要素をいくつも割愛している。
そのため例えば、ビジネスモデルキャンバスをいくら眺めていても、椅子の座り心地を悪くして回転率を上げ、利益体質を高めることによって、安価で素早く美味しい牛丼が食べられるという顧客体験のコアバリューを高めようという発想は、かなりの飛躍をしないと出てこない。
先ほど、「体験」の定義が曖昧で、何を持って「良い体験」とするかの解釈がブレることを、UXの問題の一つとしてあげた。
実際、何を持って「良い体験」「悪い体験」なのかを定義しないと、UXの議論は始まらない。「嬉しい体験=良い体験」とされているが、ユーザーや顧客にとっての「嬉しい」とは、どの視点から見るかによって、捉え方が大きく変わる。
例えば、広告を主な収益源とするウェブメディアでは、多数の広告が表示される。また、インプレッションが収益性に影響を与えるため、本来は必要ないページ送りをユーザーに強いている。これらはほぼ全て、ユーザーにとって「嬉しくない体験」である。
しかし、このような仕組みがあるからこそ、「そこそこ良質な記事を無料で閲覧し、知的好奇心を満たす」という体験を、ユーザーは享受しているとも解釈できる。
ユーザーが自覚しやすい目の前の嬉しい体験に完全に振り切ると、メディアの収益性は減退し、無料で多くの人に情報を届けることができなくなる。結果的に、有料にして見れる人を限定するか、記事の品質を極限まで落とすか、という選択を迫られることになる。しかし「そういう企業しか生き残れない」「そういう企業しかユーザーに支持されない」というわけでもない。
ユーザーが許容できるギリギリまで体験の質を落としつつ、トレードオフとして良質な記事を提供し、記事の印象を持ってして、「すごく面白いものを読んだ」「すごく参考になって仕事に活かせそう」と思わせる体験を提供するという選択肢もある。
こう考えていくと、広告が表示されてページ送りが必要なデザインは、「現実的に考えられる範囲での良い体験にデザインされている」という解釈もできる。しかし、ビジネスや経済性という観点を含めないで、ユーザーや顧客の「嬉しさ」のみを良い体験の基準にしてしまうと、このような見方にはならないだろう。
一番最初に上げた信号の例も、見えにくくすること自体は、ドライバーを緊張させるという、嬉しくない体験を与えるものだ。しかしこれは、ドライバーの許容範囲に収まってもいる。繰り返し遭遇すれば慣れることでもある。
その代わりに、より深刻なネガティブ体験を引き起す「事故」の発生率を抑えている。結果的に、「事故が起きにくい」という、ドライバーが日常的には意識していない領域のドライバー体験は向上している。
人の体験より、もう一段高い視点を持ち、人を取り巻く環境や仕組みの観点を捉え、その中で、人の体験を一つのパーツとして扱う。単純に人を喜ばせればいい時はそれでもいいが、時には許容範囲のギリギリまで体験を悪化させて、その上でシステム全体はよりよく回るように設計することもできる。
このようなシステム思考的な発想で人を取り巻く全体の環境をデザインし、その中で「人の体験を利用する」「人の体験を起点にアイデアを出す」というのが、ビジネスで求められるUXデザインの理想に思える。
時々気になるのは、デザイナーから「デザイナーの役割はユーザーを理解すること」「デザイナーだけがユーザー視点を守れる」といった類の発言を見かけることである。
こうした考え方は人間中心デザインの思想から来てると思われる。デザイナーの前向きなモチベーションの表れともいえるし、本人に悪気はないのだろう。
しかし実際のところ、デザイナー以外、つまり経営者も事業責任者もマーケターも、ユーザー、顧客、消費者を見ている。真剣にビジネスに向き合っている人ほど、ユーザーや顧客についての議論に、多くの時間を割いている。デザイン以外の分野でも、顧客視点、顧客理解が大事だと、口を酸っぱく何度も言われている。なぜなら、ビジネスとは突き詰めると「人の理解」に他ならないからである。そして人を理解するということは、そこには当然、人の体験も含まれている。
あるマーケターと話したときに、「UXって結局はマーケティングの話になるでしょ?」と言われた。マーケティングを広義に考えられないとこの発想にならないと思うが、ある面では確かにそうである。
リサーチに関しても、人の理解はUXリサーチだけの専売特許ではない。マーケティングリサーチの方が遥かに長い歴史があり、成熟してる領域も少なくない。インタビュー手法も多種多様に開発され、人を中心に据えた、人を理解するリサーチが存在している。
ユーザーや人間を真剣に理解しようとしてるのは「デザイナーだけ」というのは完全に誤解である。本気でそう思ってるのなら、それはデザイナー以外の人たちのことを知らない、無知からくる驕りといえるかもしれない。そういう発言はデザイナー以外の人たちに失礼なのでは、とも思ってしまう。
デザイナーから見て、ビジネスサイドの人々が「ユーザーを軽視している」ように見える一つの理由は、彼らが全体最適の観点から、「最高の体験」ではなく「経済性とのバランスが取れる体験」を見極めようとしているからではないか。逆に言えば、デザイナーがビジネスの現実を見ず、理想論を掲げるほど、ビジネスサイドの人々が、デザイナーの仕事の邪魔をする対立軸のように見えるのかもしれない。
このようなビジネスを対立軸に置く発想が、「嬉しい体験を提供すればビジネスはうまく行く」と単純に考えてしまう根底理由の一つにあるのではないか。
もちろんそうではない。ビジネスは対立ではなくデザインと溶け合う存在である。ビジネスサイドの人たちも多くは、ユーザーや顧客を理解しようと努めている。
そんな風に、ビジネスサイドの立場や気持ちを理解し、同じ目的に向き合った上で、UXという領域で何かできることはないかと向き合う。こうした基本姿勢が根底にあると、「ビジネス全体をよりよくするために、部分的にあえてBad UXにする」といった柔軟な発想が、出てきやすくなるのではないだろうか。
米国indeedの調査によると、UX職の求人数が激減しているらしい。
[引用] UX Job Listings Plunged in 2023
これは、コロナ期前後のIT求人の増減の影響、という見方もある。確かにそうしたマクロ的なトレンドの影響を受けて求人が減るという側面は、どんな職種でもあるだろう。
しかし問題は、市場後退と相関してUX職の求人が後退したのはなぜか、という点である。もしも、ユーザー体験や顧客体験をより良くすることでビジネスも上向くのであれば、市場が冷え込んでいるときこそ、UX職に頼りたくなるはずだ。例え他の職種をレイオフしてもUX職はホールドする、という動きになるはずである。
しかし、市場の後退に合わせてUX職の求人が減少、しかも「激減」と言えるほど減少したのであれば、これは(少なくとも米国において)UX職が「経営や事業にはさほど重要ではない職種」と市場に見られているからではないか。
要因は複合的で一つではないだろう。しかし、その一つの理由に、「体験を良くすればビジネスも良くなると思い込んでいる」「体験には向き合うがビジネスには向き合わない」というUX職の職種特性があるのかも、と頭を過った。
2010年代に発展したUXビジネスやデザインビジネスは、2020年代になって曲がり角に来ている。それを示唆する事象が、色々と起きている。これは、UX職やデザイン職における、今までの職種定義を更新するタイミングに来ていることを示しているのだと、私は捉えている。
専門領域、知識領域、研究対象としてのUXあるいはUXデザインであれば、「ここまではUXの領域」「ここからはUXの範囲外」という線引きがどこかで必要になる。
一方で実務家として生のビジネスに向き合うためには、専門領域を越境し、非UX、非デザイン領域と接続する役割を担わないと、有効なアイデアに至らない事は多い。
では、実務においては、UXの知識領域を越境してどこまで考えるべきなのか。
それは「ビジネスのそもそも論に向き合う」ということだと、私は考える。特別な話ではなく、ビジネスをする上で共通の普遍的なセオリーではある。ただ、専門職においては「私たちは専門職だから…」という理由で軽視されがちなことであり、手段にフォーカスした職業ほど見落としがちな視点でもある。
特に(広義を含む)デザイン関連職においては、複数能力の相乗効果によって成果が変わる傾向が強い職種特性がある。一方で、職種選択理由の背景に、ビジネスの忌避、商業主義への嫌悪感情、一般的なビジネス職に対する劣等感があることも多い。そのため、ビジネスのそもそも論に向き合うことを、より強調して説いた方がいいと考えている。
UXデザインにしろ、UXリサーチにしろ、それが必要とされるのは、前提として解決したい社会課題なり、事業課題なりがあるはずである。そしてUXデザインにしろUXリサーチにしろ、それらは課題解決に繋がる手段の一構成要素に過ぎない。
課題はシンプルなこともあるが、時に複雑に階層化していたり、複数の課題が複雑に絡まっていたりもする。この課題の見極めがうまくできなかったり、難易度の高い手段に気を取られると、本当に解決したい課題から乖離した「手段の理想論」を基準に、議論が進んでしまったりする。
UIデザインや機能に意識を向けるあまり、ユーザーやプロダクトの課題をスルーしてしまう状況のことを「ビルドトラップ」と呼んだりもするが、同じようにユーザー体験を良くすることに意識を向けるあまり、事業や組織の課題をスルーしてしまう「UXトラップ」なるものもあるように思う。
先ほども話したように、HOWに目を移せば、実際には「UXを良くする」「嬉しい体験を提供する」とした方がいいケースの方は多く、「あえてUXを悪化させる」方がいいケースは限定的だろう。
しかし目的によっては、「UXを良くする」ではない選択肢を取った方がいいケースも出てくる。となると、UXをあやつる職能者は、「UXを良くする」「嬉しい体験を作る」という一方向からの解釈を前提にするのではなく、その先の「真の目的」をビジネスサイドと共に見据えたうえで、UXという「レバー」をどの位置に合わせれば丁度よく全体最適されるか、という考え方が必要になる。
時には許容範囲内で体験を悪化させるという選択肢も含めて、「体験に精通した体験のプロとして求められる目的に対して最適な体験のバランスを提案する」が、今求められているUXデザインではないか。そしてその軸となるのが、「何のためのUXか?」という視点ではないだろうか。