「物事は真似から始まる」。おそらく、この言葉に多くの人がうなずくだろう。スポーツでも芸術でも、まずは模倣から入り、そこから自分なりの工夫を加えて成長していくものだ。
そんな「真似」を前提に考えたいのが、AIツールを使ったライティングだ。すでに世の中に膨大に存在している文章データをベースに生成されるテキストは、本当に「独自性」を持つオリジナルな文章だといえるのだろうか。
もちろん、コピペチェックツールで問題なしと判断され、自分なりのオリジナリティも盛り込んでいるという反論もあるだろう。そもそも言葉とは経験や書き癖など”その人”が色濃く反映されてしまうものだし、自然に「らしさ」は滲み出ているのかもしれない。味噌や漬物が各家庭で味が異なるのと同じように。
一方で、AIによるライティングはときに「どこかで見たような文章」だと感じることが多いのもまた事実だ。これは、集められる材料が”過去”の膨大なデータでしかなく、想定ターゲットも最大公約数(マス)に向かいがちだからだろう。そんな羊水の中から生み出されるものは、ベルトコンベアで運ばれる工業製品のように、どうしても同じようなテイストに収束しやすい面があるのではないかと感じている。
では、「独自性」とは何を指すのだろうか。皮肉にも、その答えの一端もAIから学べる。
よい文章には、型だけでなく、行間(意味)がある。
よい文章は、イコール正しい文章ではない。
AIが生み出す文章は定型的だ。いわば「正しい型」を備えているが、「行間がない」のだ。
“行間を読む”とは、文章に直接書かれていない筆者の意図や思いを汲み取ることを指す。日本には古来から本歌取りという文化がある。和歌や連歌において、すでによく知られている古歌(本歌)の言葉や趣向を借りて、それをアレンジして新しい歌を詠む遊びだ。この遊びはただの真似(コピペ)ではなく、いかに本歌を越える表現を生み出すかが勝負どころであり、本歌を連想させるに留めて表現に奥行きや膨らみを持たせるなどのテクニックを駆使する。日本人は今から1000年以上も前に、そんな高度なことをして遊んでいたのだ。
こう考えれば、何をベースにしたとしても、それに「本家を越えた納得性がある」かどうかがカギになりそうだ。過去の知識を借りること自体は悪くないし、それを越えて新しい価値を創出することは、1000年前から「その人のオリジナル」と認められていたのだから。
将来的には、AIがさらなる進化を遂げ、より独自性のある文章を生み出すようになるかもしれない。しかし、現時点ではAIのアウトプットを越えられるのは人間だけだと考えている。
どんな意味をその言葉に乗せるかを考える、それができるのは唯一人間だからこそ「独自性=オリジナリティ」が生み出されるのだろう。