『なぜ人と組織は変われないのか~ハーバード流自己変革の理論と実践』の中で、以下のような記述がある。
幼い子どもは、自分の認識プロセスを客観視できない。そのため、高い建物の屋上から下を見下ろして自動車や自転車を見たときのように、自分にとって小さいものは実際に小さいものだと考える。三歳や四歳、五歳くらいまでの子どもは、ビルの下を見てこう言う。「見て!あの人たち。すっごくちっちゃいね!」。けれども、八歳、九歳、十歳くらいになると、自分の認識という行為そのものを客観視できるようになる。「見て!あの人たち、すごくちっちゃく見えるね!」と言うようになるのだ。
幼い子供は自分を客観的に見ることができない。目で見えているものが真実と思っている。しかし、学習して知識を身につけ、自らを客観的に見ることができるようになると、それは人が小さいのではなく、人が遠くにいると認識し、表現できるようになる。
教育や学習というのは、人の視点を主体から客体にしていくことではないかと思う。僕らは数字や言葉の理論、化学、物理といった自然の摂理、国家や法律といった人間社会の仕組みを知ることで、自分の目で見たままの主体から、自分の視点から切り離された客体として認識できるようになり、その限界と可能性を見極めて行動ができるようになる。しかし、こういった教育や学習がなければ、いつまでたっても自分の主観でしか判断できず、自らの行動によって、周囲から得られる結果が予想できなくなる。
幼子であればそれもかわいいで済むが、大人になって強すぎる主観思考は周囲との軋轢を生む。自分に都合が良いようにしか物事を見なくなり、他者の短所を誇張することで自らの長所を過剰評価し、自分が評価されないと「周囲は本当のことを分かってない」と判断してしまう。
学習は学生時代で終わりではない。より高度な客観的視点を身に付けるために、大人になっても学習を継続し、客観的視点を高め続けなければならない。
大人の学習の難しくもあり、楽しくもあるところは、学習は座学ばかりではない、という点である。多くの人と接し、多くの人の考え、価値観に触れ、そのことを考え、解釈することも学習の一つである。学習を通じて自分はOne Of Themであることを知り、自分の考えや目で見ているものが一つの解釈に過ぎないと理解できるようになる。自然に強すぎる主観は弱まり、自らも他者も、同じ距離感で見ることができるようになる。
大人になっても学習し続ける習慣がないと、単に知識が増えないというだけでなく、客観的視点の育成においても、大きなリスクを抱え込んでしまう。つまり、物事を客観的に見ることができないまま、「私はこう思う」の視点だけですべてを評価し、解釈し、行動し続けてしまう。
「学校の勉強は大人になっても役に立たない」というのは、勉強を嫌う子供がよく持ち出す理屈だが、学校の勉強で大事なのは、何を知るか以上に、学習する習慣を身に付けることだろう。学習する習慣さえ身に付いていれば、学歴を跳ねのけることだってできる。
しかし、学習からずっと逃げていると、大人になっても学習できない体質になってしまう。これが学生時代に勉強をしないことの最大のリスクではないかと思う。(えらそうなことを言っているが、僕も高校時代はまったく勉強をせず、時間を無駄に使ってしまった)
このように学習とは、勘と経験と思い込みでしか判断できない「主観的な自分」から、より論理的で感情に流されない「客観的な自分」に成長させていくための、大事な習慣なのである。
一方で、とても勉強熱心だけど、頭でっかちで、理論ばかりで現実が見えないタイプの人に遭遇することもある。つまり、大人になってからの学習はただ闇雲に知識を蓄積していくだけでは駄目、ということでもある。では、何が必要になるのか。
思うに、自分は正しいと自己肯定したままの学習、自分を正当化するために都合よく解釈するような学習は、いくら経験を積んでも意味がない、ということだろう。それは結局主観を強化するための学習でしかなく、学習の本当の目的である「客観力」を鍛えることにはならないからである。こういう視点で学習しても、自己弁護、自己肯定をより強固なものにし、結果を推測できない厄介な自分がより強まってしまうだけである。
主観から脱し、客観的視点を身に付けるというのが、大人になるということであり、知性を身に付けるということである。コミュニケーション能力とは、いつもその知性が根幹にある。そして主観を脱して客観的視点を強めることの基本は、いつの時代・年齢でも学習である。
しかしそれは、本を読む、人と会う、セミナーに行く、だけでは不十分である。大事なのは、自分に都合がいい解釈をせず、フラットに向き合うことである。自分の好き嫌いやエゴや利害から切り離し、よりフェアな視点で見つめて、素直に受け入れる姿勢が伴っていなければ、せっかくの学習もすべて無に帰してしまうだろう。