「自分はエンジニアとして中途半端な気がする」という相談を若い社員から受けたことがある。彼がそう感じる理由を聞いた後、どう答えるのがいいか分からなかったが、ひとまず自分の話をした。
私は28歳の時に、それまでの学歴や職歴の流れをリセットするかのように、未経験でデザイナーの仕事に飛び込んだ。最初はグラフィックもやっていたが、その1年後にウェブデザインに焦点を絞った。
あれから20年あまり経つが、「自分はデザイナーとしては中途半端」という思いを未だ解決できないまま、今ここに至っている。自分は中途半端という自意識を抱えているのは、その若者と同じである。
例えば、「デザインとは…」と話すとき、「お前はデザイナーとして成功してないだろう」と誰かに思われてそう、という自意識が必ずある。頭の片隅で自分を見つめる批判的で否定的な眼差しを感じる。それはそうだ。デザインという分野で自分より専門性や権威性を獲得している人は無数にいる。それと比べればやはり自分は中途半端である。
しかしいつの頃からか、中途半端な自分を肯定できるようになった。一つは、身近に自分という人間の価値を認めてくれる人がいたからだ。さらに、以下のような視点から自分を冷静に観察できるようになったことも大きい。
若い頃は、デザイナーになるからには、スターデザイナーになるしかなく、それ以外は敗者だと思っていた。しかし実際にデザインの世界に飛び込んでみると、天才的なスターもいれば、努力家の秀才もいる。一般的に言われるデザインの能力はいまいちだが、人柄がよく潤滑油的にうまくやってる人もいる。その人に助けられ、感謝している人もいる。
結局のところ、レールは一本でも一種類でもない。色々なレールがあり、心の持ちようでどれもそれなりに楽しい旅ができるように、この世界はできている。
中途半端というのは、ある評価の物差しが当たっている状態だと思うが、物差しを変えると、評価は往々にして変わる。そして、物差しの種類は無限にある。
にも拘わらず、ある一つの物差しに固執していると、自分の力を過小評価してしまいかねない。そもそもその物差しが、自分という人間をこの社会の中で活躍させるうえで、適切な物差しなのだろうか。そんな見方ができるようになると、中途半端という自己評価に囚われなくなる。
私に関していえば、おそらくデザイン一点集中より、今のようにマーケティング、ライティング、マネジメントなどをつまみ食いしてミックスするキャリアの方が向いてたと思う。しかし、それに気づいたのはだいぶ後だ。それまで、ずっと中途半端で専門性に欠けるという自意識があった。そしてそれは今もうっすらとはある。マーケターとしても経営者としても中途半端といえば中途半端だ。何一つ極めずにここまで来ている。
ただ、おそらく自分の内発的な変化だけではなく、多くの人と出会い、多くの人のキャリアや人生と触れるという外的な刺激にさらされる中で、徐々に柔軟な捉え方ができるようになってきた。つまり、色々な物差しを獲得してきた、と言い換えることができる。
特に私の場合、自分が立脚しているウェブ制作業界”以外の人”と接したことが、多様な物差しの獲得にいい影響を与えたと思う。
自分とは異なる、多種多様な業界業種職種のプロと接していると、私たちが働く市場は、多様な動植物が共存する自然界のようだと感じることがある。「個性」と「優秀」と「多様」の境目など曖昧だ。何を持って「中途半端」とするか、そんなものは解釈次第だ。そういう世界観ができてくる。様々な人の様々な価値観、様々なキャリア、様々な人生。それらと接するほどに、ある特定の職業に対する凝り固まった固定観念が壊れていく。
もちろん「自分はこれを選択する」「自分にとってはこれが正義だ」「自分はこれに怒りを感じる」という軸はあってしかるべきだ。そういう自分の考えは、どんどんと自己開示して外にアピールしていいと思う。なぜなら同じように考えながら迷ったり悩んだりしている人たちの後押しになるからだ。
一方で、全員がそうでないといけない訳でもない、という考えを持ちたい。すると、「ああ、こういうのもアリなんだな」と自然に考えられるようになる。自分の頭の中に複数の物差しを持っておけば、他人だけでなく、何より自分を認められるようになる。「中途半端」ではなく「個性」かもしれないと、思えるようになる。
色々な属性の人と知り合うというのは、元来の人見知りには面倒で厄介なことに思えるかもしれない。私自身元来の人見知りであり、特に20代などは狭い人脈の中で生きてきた。しかし、自分を肯定して生きていく上で、人と出会うこと、人を知ることは、とても重要だとこの歳になって痛感する。
いつもながら思考の垂れ流しであって明確なオチはないが、今、冒頭の相談に乗るとすると、
といったことを話すだろう。