文章がうまくなりたい、という悩みを抱える人は多い。とはいえ、「文章の品質」は個人的な好みや運などの偶発性に大きく左右されがちだ。たとえば、思わぬ調子のよさから意外とスムーズに書けてしまうことがあるかもしれないし、発注者のニッチな好みにたまたまフィットして高評価を得ることもあるだろう。とはいえ、定量的な判断軸がない難しさは常について回る。
自分が文章をレビューするとき、必ず意識することがある。それは「これは本当にその人の100%なのか?」という点だ。不思議なもので、“誰かが指摘してくれるだろう臭”はすぐにわかる。書き手が細部を詰めきれず、「まあ、このぐらいでいいか」と妥協しはじめるポイントがあるのだ。そうなると、文中に目立ったミスこそない場合でも、なぜか粗が浮き彫りになってしまう。端的にいえば、「細部に配慮する姿勢」が欠けていることが露見するからだ。
もしそれがフリーライターであれば、「この人はこの程度なのか」と思われてしまうだろう。企業のコンテンツ制作でも同様だ。時間や素材が足りず100%を発揮できない状況はあるかもしれないが、足りなさを自覚しているのとそうでないのとでは大きな違いがある。今の自分が提供できるベストかどうかを、時々立ち止まって考えることが非常に大切だ。
結局文章というものは「人」に向けたものだから、ないがしろにされた原稿や雑に仕上げた文章は、読む側に簡単に見抜かれる。丁寧に書こうとする意識があれば、自然ともう一度見直したり、自分がやりがちなミスを細かくチェックしたりするようになるだろう。こうした「細部への配慮」は文章の品性を高める。逆に、自分のアウトプットを客観視できていないと、どんなに書き慣れていても文章の質は期待できない。
もちろん文章作成において、テクニックやスキルは重要だ。しかし、それだけで十分だというのなら、人間が書かなくてもAIが代用できてしまう。結局のところ、読み手に向けた配慮が文章の質を大きく底上げしてくれるのだ。
「本当に今の自分の100%で書けているだろうか?」という問いを、定期的に振り返ってみる。そうした丁寧さを意識する姿勢こそが、読み手に確かに届く文章へと導いてくれるはずだ。