エンジニアという仕事柄、ある1つの作業に集中して仕事をしたいときはあるものだ。
これは別に職種を問わず、どの仕事をしていようと自分の作業に没頭したい時間はあるはず。
そこで今回は目の前の作業に没頭するために私が実践していることを3つ紹介する。
また、社内の他のメンバーにも訊いてみたので、そちらも合わせて紹介してみる。
弊社では、業務中のテキストコミュニケーションをSlackで行っている。
以前までは、Slackの通知音「スッコココ」が来ればすぐに内容を確認し、優先度及び対応のタイミングを決め、場合によってはその場で返信・対応することの方が多かった。
しかしコードを書いたり、プログラムの設計をしたり、スケジュールや工数の検討などを行っている間にこの対応をやる羽目になると、作業を再開したときに「どこまでやったっけ」という状況になり、前の作業を思い出すことがストレスになっていた。
この「思い出す」という行為が脳内のメモリを非常に消費している感覚があったので、どうにかしたいと思い至ったのがこの方法である。
チャットが来るタイミングや対応の中身をコントロールすることはできないが、チャットを確認するタイミングだけはコントロールできる。
1時間という間隔は、単に私のタスクについて1時間あれば区切りの良いところまで作業を進められることの多い、そういう都合の良い時間だからである。
人の性質や普段のタスク次第でこの時間は変わるだろう。
1時間経ってからSlackを確認。何かの作業依頼が来ていれば、すぐに対応すべきかそうでないかを見定め、次の1時間のうちにやるかどうかを決める。ついでに雑談チャンネルにも顔を出す。
実際のところ原理的には25分のタイマーをセットするポモドーロ法と似たようなもので、その時間を長くしているだけなのだ。
私もそうだったのだが、「ポモドーロ法は試したけど合わなかった」という人は時間を変えてみるのも手ではないだろうか。
1時間Slackの通知を確認しなかったからと言って、業務上重大なミスに繋がったり、チャンスを失うことはそこまで多くないように思う。
Slackに限らず、気軽にチャットの通知は切っても良いのではないか。
言わずもがな、ではあるがスマホの電源を消しておくに越したことはない。
私の場合は社用のスマホなどを持っておらずプライベート用のものしかないのだが、ここからの誘惑は凄まじい。
常にTwitter(現X)を開きたい誘惑に駆られながら作業に集中することは難しいので、スマホの電源を切り、デスクの引き出しの奥の方にしまっておく。
こうすることで、「Twitterを開くのが面倒くさい」という状況を作り出すのだ。
この面倒くささは1時間作業に集中することとギリギリ天秤にかけられる。
「わざわざこの面倒くささを許容してまで作業を中断してTwiiterを見るメリットはあるか?」と問えば、答えは「ない」だろう。
私は作業をしている間、目の前のことについてとんでもない量の独り言を言う。
基本無意識的ではあるが、これが結構集中力に寄与しているのではないかと思う。
何かの作業をやっている間に、他の全く関係ないことがふと頭に思い浮かんで少しの間それに思考が囚われてしまう、という経験はないだろうか。
私はこうしたことがしょっちゅうあるのだが、独り言を常に吐き続けることで、このような関係のない思考が思い浮かぶ余地をなくすことができているような気がするのだ。
ただし、人の多いところでやってはいけない。
社内で他のメンバーに集中するための工夫を募ったところ、以下のような工夫も紹介してもらった。
前者はなかなかの強者的立ち回りである。
現代において「コミュニケーションツールはすぐに使えないと不安」という人は多いはずなのだが、それを真っ向から否定していくスタイルには素直に感服した。
しかし本人は私が知る限りマメにSlackを確認していて、業務上問題となっている場面を見たことがない。
テキストベースのコミュニケーションは連絡が来たら対応する、という受動的なものになりがちだが、その在り方について考えさせられる回答で面白かった。
後者について補足すると、弊社はフレックス制を採用しており10:00~14:00までがコアタイムなのである。そのため朝8:00~10:00の間はほとんど稼働している人がおらず、他者とのコミュニケーションが発生することは少ない。
よって、このような時間帯に集中して自分の作業を行うのは非常に合理的だ。
他にも休憩中にコーヒーを飲んだ後10~30分程度の睡眠(パワーナップ)を取るという人もいた。
総じて、今回は「在宅が基本のエンジニア」だからこその工夫ばかりを紹介してしまった。
恐らく立場や普段の業務によって列挙した方法がハマる人とそうでない人がいるのは想像に難くない。
ただ、いかにして自分が集中できる環境や仕組みをデザインするかは一人の社会人として重要なことのように思う。