Webサイトの「宗教論争」を終わらせる3つの方法

私がWebユーザビリティやWebデザインにまつわる指針や考え方として多くの面で参考にしている『ウェブユーザビリティの法則(スティーブ・クルーグ著・中野恵美子訳)』から、私が特に共感する箇所の引用です。

ウェブサイトの構築には大勢の人が関わっているが、全員に共通する点が1つだけある。それは、制作者である彼ら(枌谷注:文脈上制作者と記載されているが、クライアントも含めてプロジェクトに関わる全てのメンバーに当てはまる)もまたウェブユーザーだという点だ。そして、すべてのウェブユーザーと同じように、制作者側の各メンバーもウェブサイトのどんな点が好きか(あるいは、嫌いか)といった明確な好みを持つ傾向がある。

(略)

そして私たちがチームで仕事をする場合、こうした好みの違いを最初に確認すること自体、非常に難しいことが判明する。

その結果、良いウェブサイトを構築するにはどうしたらよいかについて、強力かつ個人的な確信を抱いた人々で部屋が満杯になるという事態が発生する。

それぞれが胸に秘めた確信が非常に強いため、(またこれは人間のサガでもあるのだが)自分たちの好き嫌いをウェブユーザー一般に当てはめようとしてしまうのである。自分が好きなものは、ほとんどのウェブユーザーも好きだと考える。つまり制作者は、ほとんどのウェブユーザーも自分たちと同じような感じ方をするはずだ、と考えてしまう。

とは言っても、さすがに誰もが自分と同じように感じると思うほどずうずうしくはない。中には、自分が好むものを嫌う人々がいることは承知している。(略)しかしながら、そういう人の人数はそれほど多くはないはずだと思っているのも確かだ。

これは時に私自身も陥る落とし穴の一つで、特に自分自身の培ってきた経験やスキルに自信があればあるほど、自分自身がユーザの気持ちを理解していると錯覚し、それを証明する(と思っている)客観的な事実や事例を持ち出し、自らの意見を理論武装しがちです。

もちろん、Webサイトを構築する上での絶対的といえる定石・マナーというものは存在します。しかし、Webサイトを利用するユーザの行動は、そこに掲載されるコンテンツや情報、あるいはブランドイメージ、企業の置かれている環境や経営戦略、さらには購買フローにおけるその時々の心理状態など、相当に複雑な要因の影響を受けるため、一般論や平均値、経験論というものが全くアテにならないケースの方がむしろ多いといえます。

さらに、客観的事実というものも、実は個々が経験したことや、頭の中で描いている前提条件によって、その評価は大きく変わってきます。

同じWebサイトのデザインを見ながら、デザイナーが「このサイトは要素が極限まで少なく、競合サイトの中でも際立ってシンプルで機能美に満ちている。Googleに代表されるように、シンプルなサイトはユーザを惑わさないため、必ず成功する」と評価するのに対して、マーケティング担当者が「このサイトは要素が少なすぎて寂しい。活気や賑やかさを感じないWebサイトにユーザは魅力を感じないことは経験的に分かっている。楽天で成功しているサイトを見ても明らかだ。これは必ず失敗する」と正反対の評価を下す場面を、多くのクリエイターが経験していることでしょう。

しかしこれはどちらの意見が正しいわけでも、間違っているわけでもなく、またどちらの方が知識豊富で、どちらの方がスキル不足というわけでもありません。今まで経験して積み上げてきた価値観がそもそも違うために起こっている認識の擦れ違いです。これは職能の違う者同士だけではなく、同じデザイナー同士でも起こりえます。同じスキルレベルのAというデザイナーとBというデザイナーで異なる意見を持つことは、実によくある光景です。

これを人間の多様性とポジティブに捉えているうちは微笑ましい光景ですが、実際には、こういった経験/前提条件の違いによる好みの問題が正誤の問題にすり替り、どちらが正しい、どちらのほうが優れている、という不毛な議論が延々と行われ、プロジェクトが一向に進まないことが発生します。最悪の場合、プロジェクト内の人間関係が悪くなり不信感に包まれることもあります。

『ウェブユーザビリティの法則』の著者スティーブ・クルーグは書の中で、こういった状況を、信仰の違いから議論が平行線のまま永遠に交わることのない「宗教論争」と同じであるとし、「好みについて議論するのは時間の無駄であり、チームのエネルギーの浪費である」と断言しています。

私もまさに同じ考えです。では、この「宗教論争」を終わらせるには、どのような方法を取るとよいでしょうか。

解決策1:ユーザテスト

「宗教論争」の解決策として、スティーブ・クルーグはユーザテストを推奨しています。「宗教論争」の多くは、主観的・定性的な意見のぶつかり合いです。ここに第三者の客観的・定量的な情報が加われば、当然「宗教論争」が収束の方向に向かうことは容易に想像できることでしょう。

ただし注意点としては、ユーザテストの結果がいつも白黒をはっきりさせるものとは限らず、むしろその解釈をめぐって新たな「宗教論争」が発生することもあります。最終的には、結論の出ない議論を一つにまとめるリーダーシップに頼る必要が出てきます。

解決策2:リーダーシップ

「宗教論争」の多くが、それを収束させるためのリーダーの不在によって引き起こされていることが多いです。特にリーダーに強い権限がなく、合議制を好む組織風土に良くみられる光景です。どんな客観的情報を収集しても、ビジネスは最終的には「やってみなければわからない」領域に突入していきます。この段階に来たときに求められるのは、状況を冷静に判断し、プライオリティとリスクを理解したうえで、方針を一つにまとめ上げる強いリーダーシップです。

この注意点としては、このリーダーシップが「宗教論争」の理解に基づく必要があるということです。これはリーダーだけではなく、それに従うメンバーにも言えることです。紛糾する意見が「宗教論争」ではなく正誤の問題であると認識してしまっていると、自分の意見と異なるリーダーの決断に納得することができず、「その判断は誤っている」と非難、あるいは渋々妥協する、という好ましくない結果に繋がります。

解決策3:「宗教論争」であることの自覚

ユーザテストもリーダーシップも、結局のところ、議論が「宗教論争」であるという自覚が全員にある、ということが大前提になります。逆にこの自覚があれば、客観的なデータや強いリーダーシップがなくとも、経験豊富なメンバーによってプロジェクトが有機的にうまく機能する場合もあります。それが「宗教論争」であるという自覚があれば、結論の出ない不毛な議論に時間を費やすのではなく、むしろサイト公開後に発生しうるリスクとその対策という建設的な議論に時間を費やすようになるでしょう。解決策3としましたが、実はこの自覚というのが、もっとも重要で基本となる解決策ではないかと思います。

今日もきっとどこかでこの「宗教論争」が行われるはずですが、「宗教論争」に積極的に乗り出し相手を説き伏せるのではなく、一歩ひいた視点で議論を俯瞰し、一番大切なものは何か、という自覚を持って、私自身も行動を選択していきたいものです。