「やったことがないので分かりません」というのはある種、正論です。人は基本的に経験がないことをゼロから発想できません。しかし、このような理由で仕事を断ることができるのは20代くらいまででしょう。30代くらいになると「やったことがないから分かりません」といえない状況が増えてきます。
「キャリアアップする」「ポジションが上がる」というのは、会社や組織の中で優秀な人だと認められることです。優秀な人には当然、簡単で価値が低い仕事ではなく、難しく価値が高い仕事が任されます。難しくて価値が高い仕事とは、基本的に誰もができる仕事ではなく、限られた人しかできない仕事です。限られた人しかできないということは、経験者が少ない、もしくはいないということです。ネットで検索しても具体的な解決策は出てこず、知り合いに聴いても誰も分からず、自分で考えるしかない仕事です。
優秀さが認められてキャリアアップするということは、経験者が少ない仕事、セオリーがない仕事、誰にも教えてもらえない仕事にシフトすることを意味しています。
こういった仕事を依頼される頃には、「やったことないから分からない」「経験したことないからできない」と言えなくなります。なぜなら、誰も経験したことがない、誰もが簡単にできることじゃない、だからあなたにお願いしたいんだ、という依頼者の気持ちが理解できるからです。
先日、とある地方自治体の方々が来社されました。相談内容は、その地域で暮らす人や観光で訪問する人を増やすためにwebサイトをうまく活用できないか、というものでした。
私自身がこれまで経験してきたのはほとんどが企業サイトです。一部で学校法人や福祉法人などの経験はありますが、地方自治体の経験はありません。だから「こうすればいいですよ」と直接語れることはありません。
しかし、何もアイデアが出てこないわけでもありません。企業サイトのノウハウから応用できそうなことは思いつきます。畑違いが考えた想像上の話だからこそ、逆に新鮮で参考になるということもあるでしょう。
また先日参加したとあるセミナーで、組織改革の話が出てきました。私は会社を経営してはいるものの、10名未満の小さな会社であり、価値観が比較的似ているクリエイターばかりの組織です。マーケ、営業、開発などが混在する複雑で規模の大きな組織を束ねた経験はありません。
しかしその「組織改革を成功させる方法」を聴きながら、もしかしたら自分でもある程度できるのでは、などと思いました。なぜならそのプロセスが、
というものだったからです。実はこれは、webサイトの制作プロセスとほとんど同じです。
組織や人の不確実性、特有の専門性を軽視しているわけではありません。実際に取り組めば、相応の苦労と思考錯誤があり、失敗するかもしれません。しかしそれでも「自分にもできるのかも」と思えたのは、以下のようなweb制作の仕事のプロセスと似ていたからです。
もちろん、大企業の組織改革など相当難易度の高い仕事で、簡単にできると舐めてかかるつもりは毛頭ありません。ただ、もし自分がそういう役回りを担当することになったなら、web制作の数多くのプロジェクトをこなしてきた知見を応用し、収集した情報を整理し、問題を構造化し、優先度を付け、合意を取り、ステータス管理をするなど、構造的な共通点をベースにして組織改革の音頭取りをするだろうな、とも感じました。
異分野や他業務でも「共通する何か」は必ずあり、それを応用すれば、未経験の分野でもアイデア出しや計画立案くらいはできるようになります。そのために必要なのが、仕事を抽象化し、構造化する能力です。
時々、どんな業種・職種に就いても一定の成果を上げる人がいます。彼らは大抵仕事を抽象的に捉えており、未知の仕事であっても、過去に経験した仕事との構造的な共通点を見出し、持っている知見を応用します。V字回復請負人のような経営者やマーケターは、異分野から突如参入して数字を残しますが、彼らは仕事の抽象化能力・構造化能力が極めて高い人たちなのでしょう。
あなたが30代以上か、あるいはその業界のキャリア5年以上なのに、今の仕事と隣接している領域であるにも関わらず、専門領域を外れるとまったく頭が働かなくなる、話のポイントが掴めなくなる、アイデアが全然出てこなくなる、何も話せなくなる、ということはないでしょうか。それを「経験がないから仕方がない」「やったことがないから分からなくて当たり前」と捉えていないでしょうか。
しかしそれは「今までの経験を応用できないことが問題」と解釈すべきかもしれません。ある程度の年齢やキャリアになれば「なぜ今まで経験したことを応用できないのか」「なぜ今まで培った知識を、新しい分野に活かせないのか」という危機感に転化した方がいいのではないでしょうか。
与えられた仕事と目前の締め切りしか考えずに仕事をしていると、上記のように仕事の抽象化・構造化が苦手になります。仕事を期限通り「こなす」ことから脱却し、仕事の背景や構造的特徴、今までの仕事との共通点まで考える習慣がなければ、仕事をしながら物事を抽象化・構造化する力は身に付きません。仕事の根底にある「普遍的な法則」を読み解くような、そんな仕事の仕方をしなければなりません。
抽象化・構造化能力はキャリアの要求だけでなく、時代の要求でもあります。ケビン・ケリーが執筆し、2016年ベストセラーになったビジネス書『<インターネット>の次に来るもの~未来を決める12の法則』では、現在も進行し、この先より顕著になる12のトレンドについて詳しく解説されていますが、その中で以下のような言及があります。
あるツールをどんなに長く使っていたとしても、際限ないアップグレードのせいであなたは初心者、つまりどう使っていいかまるで分らない新米ユーザーになってしまう。この<なっていく世界>では、誰もが初心者になってしまう。もっと悪いことに永遠に初心者のままなのだ。
これはツールに限った話ではありません。仕事自体も、進化を続けるテクノロジーによって常にアップデートされ、数年サイクルで初心者に引き戻されます。そのたびに強みを失い、ゼロから成功パターンの学習を積み重ねるようでは、やがて変化に追いつけなくなるでしょう。培ったノウハウを抽象化・構造化し、古い仕事と新しい仕事の共通点を見出して、自分の強みを関連付けなければなりません。
ここ数年、「AIが普及すると失業者が大量に生まれる」という記事を見かけます。しかし、仕事の抽象化・構造化を当たり前のように行っている人にとっては、AIの普及はさほど不安ではないでしょう。なぜなら、AIが浸透した世界とAIが浸透していなかった世界との構造的な共通点を見つけ、差異点は情報をインプットして補完し、あとは自分の強みを投下していく、というプロセスはこれまでと大差ないからです。
抽象化能力・構造化能力に対するキャリアの要求、時代の要求に対し、会社や組織はどのように向き合うべきでしょうか。私は、以下の3つの使命があると思います。
社会人になって数年は、基本スキルを身に付けながら、抽象化・構造化能力の下地を作る時代です。この頃の若い社員に生産性第一主義で、最低限の指示しか与えない様な仕事のさせ方をしてはいけません。業務に直接影響がなくても、その仕事の存在理由、背景にあるビジネス構造も説明したうえで、仕事を依頼すべきです。背景や経緯も含めた立体的・多面的な業務理解こそが、抽象化・構造化能力の土台になります。
核となるスキルをある程度身に付けたら、時々他の領域に触れることも、抽象化・構造化能力の研鑽には効果的です。実際に手を動かす以外に、打ち合わせへの同席や意見交換も良い経験になるでしょう。専門領域をきちんと磨く環境を維持するのは当然ですが、一方で、できるだけ色々な仕事、色々な職種、色々な価値観に触れる体験を、仕事の中で提供していくことも忘れてはいけません。
管理者には通常、経験豊富な人物が任命されます。経験豊富だから抽象化・構造化能力に優れ、未知の事柄にも対応できると期待できるからです。しかし実際には「前例がないから意思決定できない」という管理者も存在します。必要以上にデータを集めさせる管理者も根幹は同じでしょう。「明らかな地雷」を排除するためのリサーチは重要です。しかし、いかに前例やデータを収集しても、不確実性にどう対応すべきかの答えが見つかることはありません。地雷を取り除いた後は、自らの経験を応用し、先頭を切って道筋を提示するのが管理者の本来の姿です。前例主義者はこれに反する存在です。彼らを管理者にすると、事業の停滞だけでなく、組織内で抽象化・構造化能力を持った社員が育つ風土自体が生まれないでしょう。