自分は歩くのが好きで、時々少しだけ遠くの街に行って散歩をすることがある。その際、混んでいる電車に乗るのが嫌いなのでバスを使うことがある。しかし、いつも降車ボタンでどこを押すのか迷う。
降車ボタンには「このボタンを押してください」と書いてあるが、毎回どこを押せばいいのかわからず、一瞬躊躇してしまう。「このボタン~」と書いてあるところを押すのか、それ自体はボタンでは無く、上にあるボタンの説明文なのか迷うのである。
もっと明確で直感的に“ボタン”とわかれば、迷わず一番にボタンを押すことができるのに…。そんなことを毎回バスに乗るたびに思うのだが、つい先日バスに乗ったところ、ボタンに少しだけ凸部分があり、指で押しているようなイメージ図が書いてあった。これなら押す位置がわかりやすいので、もう迷うことは無いだろう。
この経験から考えると、“ボタン”は“ボタン”らしくあるべきということである。こういった新型の降車ボタンが出てくるという事は、恐らく降車ボタンの押すエリアに迷っているのは自分だけではないのだろう。
つい先日、お寿司を食べに行った際、注文にタブレットを使用した。しかし、選択したお寿司が画面の下部に表示され、必要な情報が他の情報にかぶさって見えない問題に直面した。
さらに2~3個選択した時点で、前後リンクの「前」は選択したお寿司に被って押せない…。これは一気に大量に注文することを防ぐために設計されたのかもしれないが、必要な情報が隠されてしまう、操作できなくなってしまうことは少々煩わしく感じた。
この経験から考えると、利用者が求める情報を画面上で見失わないよう、設計や操作が使いやすいものであるべきということである。限られた画面の中で情報を見せるには限りがあるが、優先度をつけて適切に情報を見せる、またわずらわしい状況を生み出さないという事が重要だろう。
日常の些細な不便や困りごとは、UIやUXにおいて重要な洞察を提供している。ボタンがボタンらしく、情報が見やすく、優先度がついたデザインは、ユーザーが迷うことなく使えるようにする鍵になっている。日常の小さな不便は、UIの改善につながり、UXを向上させる貴重な機会であることを忘れてはいけない。そう散歩をしながら思うのである。