根拠も何もない個人的な感覚・印象としての話だが、自分なりのモノの見方や考え方を持っている人のほうが、他者の要求や基準を相対的に捉えることができ、必要に応じてチューニングする能力が高く、往々にしてより良い評価を得られるパターンがあると思う。
よく採用の文脈で「オタク気質がある人がいい」というフレーズを耳にする。あれは没頭する能力があることより、それによって養われた自分基準と他者基準を相対的に捉え、チューニングできるから価値がある、という話としても捉えられないだろうか。
表層的には、粘り強い探究心がある、ハマると強い、と説明されがちだ。
しかし本当の価値は、クライアントの「なんか違う」、上司の「もう一段よくならない?」があったとき、「あ、ここが違う」「ここの見方が違うんだな」と変換できる能力にあるのではないか。
逆に言えば、自分基準がない、自分なりの良い悪いの判断がない人は、他者のそれを相対的に捉える力が弱い。
他者に強く反発しないし、指示には素直で、空気を壊さないという意味では扱いやすい。しかし同時に、本当に理解しているのか判断がつかない。反発して軋轢を起こすことはないが、結果的に指示に従うだけになってしまい、場合によっては「この人、ほんとにわかってるのか…?考えてるのか…?」となりやすいような気がしている。
この話は、ここ数年でちょいちょい耳にする「問いかけ力」とも関連づけられると思っている。
オタク気質の人は、何かにハマることで観察が始まる。観察することで「なぜ?」「どう違う?」「他との違いは?」という問いが生まれ、問いを持つとさらに観察が深まり、構造や文脈が見えてくる。
その中で自分基準が生まれ、基準を持つとさらに差分に気づけるようになり、新たな問いが生まれる。このループを繰り返すことで、自分基準が確立・精緻化され、ある特定領域に対して、より深い構造で物事を捉えることができるようになる。
そして仕事の文脈では、この確立された基準があるからこそ、他者基準とのズレを相対的に捉え、調整でき、結果として成果や評価が生まれやすくなる。
もちろん、自分基準と他者基準をチューニングできず自己が肥大化し、制御不能になる可能性もある。今、オタク気質で成果を出している人は、通過儀礼としてそういう時期を過ごしている人も多いと私は思っている。
これはここ数年注目されている観察の話にもつながると個人的には考える。観察とは本来、見ることではなく、差分に気づくことだ。
自己基準があるからこそズレやギャップが見える。しかし基準がない人には、そもそも観察すべき対象が認識できない。「なんか違うな」「何かがおかしい」という変換が起きるのは、センスではなく、長年の観察と内部基準の蓄積による技能だ。
そしてここで「言語化」という概念を登場させてみる。
ここ数年のビジネスシーンにおける最大のバズワードは言語化であるが、本来の言語化とは、観察→問い→構造理解→言語化という一連のプロセスの最終工程であるはずだ。
ところが少なくない場合、いきなり最終工程だけを切り取ってそれを言語化としている気がしてならない。それ、ただの言い換えごっこ、言葉当てゲームではないかと。
言語化するために必要なのは言い換えスキルではなく、その手前にある問う力、観察力、構造で捉える力だ。そしてそれらを支えているのは、自分基準の存在ではないだろうか。
オタク気質の本質は、没頭力でも粘り強さでもなく、自分基準を確立し、それによって他者との「基準のズレ」を見抜き、チューニングできる力にあるのではないか。